2015/07/17

Saggio #7

「カラチェニで出会ったアウレリオ」


 ローマで知り合ったペレグリーノ(Saggio#2参照)は、ACCADEMIA NAZIONALE DEI SARTORIの理事をやっていたので、ローマイタリア各地の大御所サルトと面識があった。
その縁で、トミー&ジュリオ カラチェニ※1で勉強できるように手配してもらえた。トミー&ジュリオカラチェニはヴィットリオヴェネト通りからちょっと入ったカンパーニャ通りにあった。

 普通のマンションの1階全部が店と工房になっており、各部屋で職人たちが仕事をしていた。私はマリオとアントニオのコンビの部屋で縫製の仕事をさせてもらう事となった。
工房には約10人くらいの職人達が働いていたと思う。皆個性的な性格で、今考えても映画のような情景が思い出される。
顧客にはシャンソン歌手のシャルル・アズナブールがロールスロイスに乗ってやって来られていた。

 カラチェニには常駐している職人とは別に、下職の人たち※2もたくさんいた。
その中の一人、アウレリオ・ボルゲッティ(AURELIO BORGHETTI)は、Forbici D'oro※3の2位を取った方で、独立しながらカラチェニの仕事もされていた。彼が夜も晩くまで仕事をしているのを知っていた私はそこに目を付け、彼の家へ通うようになった。夜9時頃になると仕事台が食卓に変わり、奥さんのアンナマリアさんが手際よく夕食の準備をされていた。私も何度となく御馳走になった。アウレリオのマンションの管理人のラウラがパンツの職人で、アウレリオの良きパートナーだった。彼女の縫うパンツは本当に縫い目が粗い手縫いのパンツなのだが、それが何とも言えない味を醸し出していた。
息子のマルコは当時8歳くらいだった。そのマルコも今では後を継ぎ、サルトリア・ボルゲッティをやっている。アウレリオもマルコも、私が使っていた日本の鋏を気に入り、私が日本に行く度に鋏を買ってきてくれと頼まれていた。
昼はカラチェニで勉強し、夜にアウレリオの自宅へ行くという生活が続いた。
よく、イタリア人は働かないなどと言われているが、私はイタリアの職人達が本当に良く働くということを直接肌で感じた。

アウレリオは2008年に惜しくも亡くなってしまったが、彼に教わったサルトとしての生き様は忘れてはならないと思っている。


トミー&ジュリオ カラチェニの外観
この1階部分が工房になっている。当時船橋は真ん中あたりの窓の所で仕事していた。

アウレリオ・ボルゲッティ氏
イタリアのサルトの縫製から生き方まで、氏から学び得たものは多大だという。



※1 トミー&ジュリオ カラチェニ ・・・・ イタリアの伝説のサルト、ドメニコ・カラチェニの系譜の一つ。トミーとジュリオはドメニコの甥にあたる。ちなみに当時世界的に有名だったアンジェロ・リトリコの店は近くのシチリア通りにあった。

※2 下職 ・・・・ 店に常駐していない職人。個人で独立しながら他の店の職人として縫製などの仕事を請け負っている。

※3 Forbici D'oro (フォルビチ・ドーロ) ・・・・ イタリア、サルト界で最も権威のあるとされる賞。