2018/03/03

長崎刺繍

ひな祭りも過ぎ気温も暖かくなりましたね。
もう少しで桜も咲きそうです。

先日船橋が長崎に出張に行って参りました。
長崎刺繍職人の三代目嘉勢照太(かせ てるた)先生に刺繍の依頼をしていたので帰省も兼ねて受け取りに訪れた時の様子です。
丁度ランタンフェスティバルも開催していたようです。

長崎ランタンフェスティバルは、元々中国の旧正月を祝う祭りで長崎市新地町にある中華街で行われておりました。
この中華街は横浜、神戸と並ぶ三大中華街の一つで、長崎市は福建省の姉妹都市でもあります。
期間中はランタンやオブジェが飾られ幻想的な街の風景が楽しめ、規模を拡大してからは毎年100万人を超える人々が訪れているそうです。






有名な眼鏡橋もランタンで彩られとても美しいですね。
橋には大勢の観光客がおり賑わっている様子が伺えます。





モチーフも中華的です。
期間中は中国獅子舞、龍踊り、二胡の演奏など様々なイベントも開催しているようです。





中国文化が根付いたのは江戸時代、中国との貿易があった事に由来し、中国との貿易を独占的に行っていたのが長崎港です。
寛永の頃(1624年頃)、唐船が来航した際に唐人達がそのまま長崎に移住し、「住宅唐人」と呼ばれるようになりそこから中国文化や技術が伝えられました。

住宅唐人が居たころは唐人の人数も少なかった為住居の制限がありませんでしたが、年々唐船の来航が増え密貿易も増加し、対策として元禄2年(1689年)に造られたのが「唐人屋敷」です。
屋敷が出来たことにより唐人の住居の制限が出来、外出もあまり認められなかったようです。

唐人屋敷は出島の和蘭屋敷と並ぶ日本の対外貿易の二大拠点のひとつで、敷地総面積は約9,360坪もあり、約1万人の中国人が在住していたようです。
場所は今の中華街から少し外れますが観光スポットにもなっております。

 また、唐船が積荷で使用していた倉庫が海岸にありましたが、火災により焼失し、新たに埋め立て造られた土地が「新地」や「新地蔵所」と呼ばれ、明治維新後、唐人屋敷、新地蔵所が廃止された際に港により近い新地蔵所に在日中国人が集まり今の長崎市新地町の中華街として発展したようです。









前置きが長くなってしまいましたが、次に長崎刺繍についてです。
長崎刺繍もまた中国文化によりもたらされた技術です。
在宅唐人のほとんどが福建省出身だったようで、長崎刺繍の技術も元は福建の技術ではないかと考えられているようです。
その後出島のオランダ商館付き医師としてシーボルトが来日します。
シーボルトは日本に関する膨大な資料を収集しており、そのコレクションは書物や絵画、工芸品など多岐にわたります。
その一つが長崎刺繍が施された「長崎くんち」の衣装です。
「長崎くんち」は諏訪神社の秋の大祭で奉納踊は重要無形民俗文化財に指定されております。
その奉納踊の衣装をシーボルトは持ち帰ったようで、現在ではオランダのライデンやミュンヘンなどを中心に残されているようです。





これが嘉勢先生に依頼した弊社のエンブレムの刺繍です。
正面から撮った写真だと一見普通の刺繍に見えます。




現在長崎刺繍の技術を継承しているのは嘉勢先生お一人だそうです。
他の刺繍と違いべっこうやビードロなど伝来当時の舶来品などが使われており、写実的なのが特徴です。
オートクチュール刺繍のように刺繍の合間に素材を差し込む事や、パーツを作り最後に縫い合わせるなど様々な手法があり、魚や龍などを中国風に刺繍していきます。





横から見ると立体的です。
恐らくですが、白い部分には綿を入れ膨らみを持たせております。




エンブレムのアウトラインが立体的になっているのは、肉入れにより中に芯となる紙縒りなどが入っているからです。
下絵を布に転写した後、紙縒りや木綿糸を下絵に合わせ製作し綴じ付けます。




刺繍の技術だけではなく下絵も重要です。
江戸時代、長崎の町絵師達は当時の日本の絵師達とは違い奥行のある絵を描いており、その下絵を元に繍師達がよりリアルになるように刺繍を施していたそうです。

嘉勢先生も工業大学の電気工学部を卒業後、絵画研究所で学び刺繍店へ弟子入りしたそうです。
その後2年で長崎刺繍工房として独立します。
2010年3月には長崎県指定無形文化財長崎刺繍技術保持者の認定も下りたようです。





こちらも細かい仕事ですね。
エンブレムの金糸もですが、糸の撚りの違いで光沢感など表情が変わります。





刺繍を挟んで中央に座っいらっしゃるのが嘉勢夫妻です。




福建省というと、最初の話に繋がりますね。
唐人屋敷により文化や技術を伝える機会が少なくなってしまったようですが、それまで長崎の人々は唐人達と交流を図っていたのですね。
江戸時代からの流れがあり今日まで交流が続いているとは、長崎貿易によってもたらされた文化や技術の発展は本当に目覚ましいですね。


経歴
嘉勢 照太 
1951年 長崎市八百屋町で生まれる
1978年 電気工学部を卒業後、絵画研究所で学ぶ
1982年 八田刺繍店へ弟子入り
1982年 長崎刺繍工房として独立
1998年 長崎刺繍塾開塾
1999年 万屋町「魚尽し傘鉾垂れ」蟹復元 
2000年 第5回アジア工芸展、長崎知事賞受賞
2001年 第33回日展初入選(作品:蚕燦)
2002年 長崎伝習所・「長崎刺繍」再発見塾開講
      長崎市指定有形文化財・万屋町「魚尽し傘鉾垂れ」復元10年計画スタート
2003年 万屋町「魚尽し傘鉾垂れ」鯛復元 
2004年 小川町「傘鉾垂れ」刺繍デザイン及び制作(71年ぶり新調) 
    万屋町「魚尽し傘鉾垂れ」伊勢海老・めす蟹復元 
    第36回日展入選(絹響)
2005年 伝統工芸人材育成事業「長崎刺繍」再発見塾開講
    万屋町「魚尽し傘鉾垂れ」たこ・松かさ魚(2匹)復元 
2006年 船大工町「川船飾り船頭衣裳」復元新調
            第38回日展入選(絹響Ⅱ)
2007年 万屋町「魚尽し傘鉾垂れ」糸より(2匹)復元 
      第39回日展入選(融合)
2009年 九州国立博物館ロビーにて作品展 
    長崎歴史文化博物館ロビーにて【長崎刺繍「嘉勢照太の世界」】作品展 
      万屋町「魚尽し傘鉾垂れ」鮟鱇・ほうぼう(2匹)復元 
    長崎県地域文化賞受賞
2008年 万屋町「魚尽し傘鉾垂れ」ふぐ・紅さし(4匹)・鰯(7匹)復元
2010年 長崎県指定無形文化財長崎刺繍技術保持者認定
2011年 万屋町「魚尽し傘鉾垂れ」カレイ・ハモ・甲イカ復元 
    萬行寺打敷(御前卓・御上卓・祖師前・御代前)デザイン・新調制作


「長崎刺繍」再発見塾
http://nagasakishishuu.web.fc2.com/shisyuu/index.html
こちらで長崎刺繍の歴史や嘉勢先生の作品もご覧いただけます。


          
サルトリアイプシロン Sartoria Ypsilon

東京都中央区日本橋本町4-7-2 ニュー小林ビル3階

03-6225-2257

info@sartoriaypsilon.jp